竹嶺街道

  • 竹嶺街道
  • 小(ソ)白(ベク)山(サン)の第2蓮(ヨン)花(ファ)峰(ボン)と兜(ド)率(ソル)峰(ボン)が連なるくびれに位置した、海抜689mの峰。

    • 位置 : 栄州市豊基邑水鉄里

紹介(国指定文化財名勝第30号指定、2007.12.17)

『三国史記』には「阿(ア)達(ダル)羅(ラ)王5年(西暦158年) 3月、ようやく竹嶺道が開かれる」と記されています。また、『東国輿地勝覧』には「阿達羅王5年に、竹(チュク)竹(チュク)が竹嶺道を開拓し、疲労のため殉死した。峠には竹竹を祀る祠堂、竹竹祠があった」とあります。

竹嶺には悠久な歴史と様々な物語が伝わっています。三国時代には一時期高句麗の国境として新羅と対峙した地域であり、三国の軍隊がくんずほぐれつ、追いつ追われつ、火花を散らした激戦の地でもありました。高句麗が竹嶺を占めたのは長(チャン)寿(ス)王の執権末期(西暦470年頃)、新羅時代の真(ジン)興(フン)王12年(西暦551年)、王は居(コ)漆(チル)夫(ブ)などの8人の将軍に命じ、百済とともに高句麗を攻略、竹嶺以北の10の村を奪い取りました。その40年後の嬰(ヨン)陽(ヤン)王1年(西暦590年)、高句麗の名将・溫(オン)達(ダル)将軍は王に自ら志願して軍隊を率い、「竹嶺以北の失われた領土を取り戻さない限り、戻ってこない」という言葉を残したという記録(三国史記)を見ると、その当時竹嶺がどれほど重要な地であったか分かるというものでしょう。

西暦1910年代までも、慶尚道東北地方の人々がソウルへ行く時にはこの旧街道が利用されました。科挙に青雲の志を抱いたソンビ(儒教学者)、公務で移動する官員、さまざまな物を売り買いする行商人などなど、年中にぎやかだったこの峠の道には、旅人のための宿や馬屋などが随所にありました。

竹(チュン)嶺(リョン)街道は、二千年という悠久な歳月の間、韓国の東南地域の交通の大動脈の一部であった道ですが、近代の交通の発達によって利用者が激減、十数年間も蔓におおわれた状態でした。

歴史の哀歓を大切に、2千年近い歳月、嶺南内陸を繋いでいた昔の趣(おもむき)を取り戻し保存しようとする意味で、1999年栄州市が喜方寺駅から竹嶺居酒屋まで1時間程度(2.5km)の道のりを復元しました。ここでは森の木と山鳥、リスなどが行き交う山道を歩きながら、先人たちの足跡を感じることができます。